2010年5月

福井県敦賀市の、高速増殖炉「もんじゅ」(原子力開発機構)が約14年ぶりに運転再開。

2010年05月06日

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原水禁・連合・核禁会議の1000万署名を国連に提出

2010年05月06日

 5月2日、世界各国から核兵器廃絶を訴える市民が1万人以上結集しニューヨーク市内をパレードした後、国連本部前でNPT再検討会議議長のカバクチュランさん(フィリピン)に原水禁・連合・核禁会議の三団体が取り組んだ核兵器廃絶1000万署名で集めた日本国内分の6,660,569筆を直接手渡しました。(写真)。この署名は昨年5月から取り組まれ、今年4月16日には、首相官邸で鳩山由紀夫首相に直接手渡し、日本が核兵器廃絶へのリーダーシップをとるよう強く要請したところです。それに続き三団体として国連への提出・要請となりました。
提出には、原水禁から川野浩一議長、連合からは古賀伸明会長が立ち会い、議長に経過の報告と核兵器廃絶に向けた強いリーダーシップを発揮して欲しい旨を伝えました。

 翌3日、本会議の議場での提出と古賀会長のスピーチが当初予定されていましたが、国連事務サイドのミスによって他のNGOとともに会議場に入ることができず、議場内での手渡しは実現できず残念でした。
オバマ政権の登場で、「核兵器のない世界」の実現に向けていく姿勢が打ち出され、再び世界の核軍縮の機運が盛り上がりつつあります。そのような中、今回のNPT再検討会議が、被爆者や世界の反核NGOをはじめとする多くの市民が具体的に核兵器廃絶にむけた動きにつながることを期待しています。その期待を後押しする660万の声として直接届けることができました。

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NPT再検討会議代表団派遣 ニューヨーク行動(2)

2010年05月06日

 原水禁派遣団は、5月3日の開会以降、ニューヨークに於いて以下の取り組みを行いました。

 5月3日午前中は、国連本会議を傍聴し、潘基文(バンギムン)国連事務総長や天野之弥国際原子力機関(IAEA)事務局長などの冒頭の演説を傍聴しました。午後には、原水禁、連合、核禁会議の3団体の代表(原水禁からは川野浩一議長、藤本泰成事務局長、井上年弘事務局次長が出席)が、福山哲郎外務副大臣、須田明夫国連軍縮大使との面談と要請を行いました。特に、今回のNPT再検討会議で核軍縮への具体的な取り組みを、日本が積極的にリーダーシップを発揮し世界をリードするよう要請しました。さらに日本の姿勢を見せるためにも鳩山由紀夫首相や岡田克也外務大臣が来て核軍縮への外交努力をするべきであると申し入れました。
 夜には、外務省が後援をする「被爆証言」のレセプションが国連本部で開かれ、川野議長、井上事務局次長が参加しました。

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 国連本会議の様子

 翌4日は、原水禁が長い間交流を深めている全米最大の平和団体・ピースアクションとの交流を行いました。そこでは、原水禁世界大会にもゲストとして来日されたことのあるピースアクション代表のケビン・マーティンさんやジョージ・マーティンさんなど懐かしい方々が歓待してくれました。交流は、ケビンさんからアメリカの核政策の現状と行方についての解説があり、オバマ大統領の登場により「核のない世界」という願いと現実のギャップがあり、それには軍部からの圧力があるとのこと。米ロで合意した新START条約の批准に時間がかかること。CTBTもここ2、3年はムリではないかと。厳しいアメリカの現状が報告されました。
 日本側からは、藤本事務局長から鳩山新政権下での核政策やそれに対する原水禁のとりくみや考え方が紹介されました。被爆二世や高校生平和大使、1万人署名活動などの日本の運動についてかかわっている参加者から紹介されました。
 ジョージさんからは、アメリカでウラン採掘の動きが活発化している報告がありました。ウラン採掘の場所は先住民の聖地となっているところも多く、そこではガンの発症率も高くなっているとの報告がありました。今年の原水禁大会の海外ゲストとしてアメリカから先住民を呼ぶ予定にしていることもあり、たいへん興味深く報告を聞きました。

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後列左から、ケビン・マーティンさん、ジョージ・マーティンさん

 午後には、連合とITUC(国際労働組合総連合)が主催するシンポジウム「核兵器廃絶のための労働組合の役割」に参加。基調講演として、核不拡散と核軍縮に関する国際委員会(ICNND)議長のギル・エバンスさんから、この間日豪の間でとりまとめた報告書の内容について解説し、アメリカを中心とした核の状況について論評しました。(ICNND報告に対しては、原水禁としては09年12月22日声明を発表)。さらに、秋葉忠利広島市長、田上富久長崎市長からもそれぞれの立場からの取り組みと考え方について報告がなされました。インドの参加者からは、軍事費が国民の生活を圧迫していること、核兵器をつくるのではなく生活の権利を守ることだと発言されました。

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報告を行う秋葉広島市長(左)。右は田上長崎市長。

 また、同じ時間帯で劣化ウラン問題の国際会議も開かれ、そこでは藤本事務局長があいさつに立ち、原水禁としてあらゆるヒバクシャとの連帯とともにヒバクシャをつくらせないことをアピールしました。
 翌5日には帰国の途につきましたが、短いニューヨークでの行動は、中身の濃い行動となりました。
 

NPT再検討会議代表団派遣 ニューヨーク行動

2010年05月06日

※5月3日に開幕した核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて、原水禁は6日までの日程で、25人の派遣団を開催地のニューヨーク(NY)へ送りました。以下、派遣団メンバーからの現地リポートです。

 日本で聞いていた情報では、「ニューヨーク(NY)は寒い」ということでしたが、2日のNYは、最高気温29度。しかも、遮るもののない晴天。私たち原水禁の派遣団25人は、総会入場のために必要なパス(ID)を発効、取得するために、朝8時30分から11時まで炎天下に並び、その後ピースアクションなどが主催する集会とパレードに参加しました。
 タイムズスクエアを中心に7th Av(7番街)に、アメリカのバーモント州からやってきたハイスクールの学生、日本からの参加者、連合・原水禁・核禁会議の三団体、そして国際労働組合総連合(ITUC)のメンバーなど、多くの仲間が並びました。
 日本から来たヒバクシャの訴え、平和市長会の訴え、ウラン採掘に反対するネイティブアメリカンの方、協会関係者、イラクやアフガニスタンからのゲストなど、平和と核廃絶への各国からの熱い訴えが、1時半から2時間を超えて続きました。
 それから私たちは、古賀伸明連合会長、澤田和男核禁会議副議長、川野浩一原水禁議長を先頭に、約100人が参加してパレードを行いました。熱い中でのパレードでしたが、参加者は元気いっぱいに核廃絶をアピールしました。

 

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前列左から、古賀連合会長、川野原水禁議長、佐古正明原水禁副議長

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バーモント州からやってきたハイスクールの学生たち

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原水禁代表団メンバーたちも参加したパレード

 また、パレードの終点、ハマーショルド広場には、連合の広島・長崎被爆のパネル展、原水禁の核廃絶を訴える「木のブロック」など、多くのブースが展開されました。特に、憲法9条の9をあしらった、「9条バッジ」を配りながらの原水禁「木のブロック」(全国から集められた平和のメッセージ)の展示は多くの外国人の興味や関心を引いて、大きな手応えが感じられるものでした。9条バッジの意味を聞いてくる方が多く、英会話が堪能な原水禁派遣団メンバーの草野昴志郎さん(大学生)や佐藤治さん(神奈川高教組)が、親切に対応してくれていました。

 

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木のブロックには多くの注目が集まりました

 原水禁派遣団メンバーは、NYに入る前にネバダの核実験場の見学も行いました。その報告も詳しく掲載したいと思っています。
  

高速増殖原型炉もんじゅ再稼働にあたっての声明

2010年05月06日

 4月26日、西川一誠福井県知事と川端達夫文部科学相、直嶋正行経済産業相との3者協議で、地域振興策と引き換えに運転再開の実質的合意がされました。その夜、またもナトリウム漏えい検出器のトラブルが発生しました。同種のトラブルは、改造工事後にも頻発しており、工事の信頼性に大きな疑問がわくのも当然の事態です。しかしながら、28日、福井県、敦賀市はもんじゅ運転再開を承認しました。原水禁は再稼働にあたって声明を出しました。
 

 

高速増殖原型炉もんじゅ再稼働にあたっての原水禁声明
 

 高速増殖炉計画は、使用した核燃料以上にプルトニウムを生産することが出来るとされ、長期的なエネルギー安定供給のための核燃料サイクルの中核と位置づけられて来ましたが、当初の目算からすべて状況が変わっています。1970年代までの考え方だった希少ウラン資源の有効活用という最大の存在理由自体が、もはや成立しません。
 ウラン資源は、当初の予想よりはるかに多く存在し、増殖させるはずのプルトニウム自体、日本の所有する物だけでも46トンを超えてだぶついています。六ヶ所再処理工場が事故続きで稼働しない事をさしおいても、増やしたプルトニウムを取り出して使うという核燃料サイクルの構図自体が破綻している事は、誰が見ても明らかです。
 1995年の事故でも明らかなように、冷却剤にナトリウムをつかう高速増殖炉は、極めてリスクが高い。先行した米、英、独、仏など各国でも計画を中止しています。
 さらに、14年以上も停止していた原子炉の再稼働というきわめて例外的な技術的課題への挑戦であり、もんじゅ直下に活断層が見つかっている事に対して、再開を優先して耐震安全性に懸念の残るままであるなど、安全、安心を後回しにしているとしか思えない状態です。改造工事完了後もナトリウムもれ検出器の誤動作が相次ぐなど、心配が絶えず、福井県民のみならず、全国の人々の安心を奪っています。
 高速増殖炉開発にはすでに2兆円を超える税金が使われ、ごくわずかしか発電しなかった「もんじゅ」の維持に年間100億以上もかけてきました。国は、福井県の合意を得るために、北陸新幹線の敦賀延伸や高速道路の早期開通等、地域振興策に責任を取るといいます。不合理な税金の使われ方に現地からも疑問の声が出ています。最も経済合理性の無い、最も危険な事業に対する見直しを早急に望みます。
 さらに、NPT再検討会議開催中の5月に高速増殖炉を稼働させるという事は、全世界に日本の全く不可解な核燃料政策をアピールし、イランなど核分裂性物質生産を望む国にモデルをしめして、核不拡散への日本の外交にも悪影響を与えます。プルトニウム利用政策をやめ、核兵器物質を持たない基準をつくって、国際的にも説得力ある核燃料政策への転換が急務です。もんじゅは動かすべきではありません。

2010年4月28日
 

原水爆禁止日本国民会議
議  長 川野 浩一
事務局長 藤本 泰成

ネバダ核実験場を訪問―越えねばならない壁、日本は何を訴えるか

2010年05月06日

 核不拡散条約(NPT)再検討会議への原水禁代表派遣団25人は、会議が開催されるニューヨークへ入る直前の4月30日、Nevada Test Site(ネバダ核実験場)を見学しました。時差ボケにもめげず、早朝7時にホテルのロビーに集合した代表団は、バスで数分のThe Atomic Testing Museum(核実験博物館)に向かいました。サイトへ入るためのIDを取得し、案内人と共に専用のバスに乗り換え、核実験場へ向かいました。
 砂漠の中に、こつ然と現れる人工都市・ラスベガスの喧噪を後にして、バスは65マイル(約100km)離れた核実験場の入り口のマーキュリーまで、左右全く同じ風景の広漠とした砂漠の中、まっすぐなハイウェイをひたすら走り続けました。
 雪を頂いたチャールストン山を遠くに見ながら、途中、アメリカ空軍の曲芸飛行隊サンダーバーズが本拠地としているNellis Air Force Base(ネリス空軍基地)やCreech Air Force Base(クリーチ空軍基地)を通り過ぎていきます。クリーチ空軍基地は、アフガン戦争に使われているPredator(プレデター)無人航空機の訓練場で、この航空機は無人で遠隔操作の上偵察やレーダー誘導方式のヘルファイアⅡ対戦車ミサイルを搭載してアフガン戦争では爆撃の任務にも着くとの説明を受けました。米国は、今も戦争をしている国なのだと改めて感じました。

 ネバダ核実験場の入り口であるマーキュリーを無事通過した私たちが最初に目にしたのは、湖が干上がった広大な盆地状の砂漠でした。French man flat(フレンチマンフラット)と呼ばれるこの地は、1951年1月27日にネバダ核実験場での最初の大気圏核実験が行われた場所でした。
 米国最初の核実験は、ニューメキシコ州アラモゴードで45年7月16日に行われ、その直後の8月6日と9日に広島・長崎に原爆が投下されたことはご承知の通りです。戦後、ソビエトの核開発と競い合う米国は、南太平洋のビキニ環礁とエニウェトク環礁において66回の核実験を繰り返しました。54年3月1日のキャッスルブラボーと称される15Mt(メトリックトン)の水爆実験は、日本のマグロ漁船、第五福竜丸の乗組員など、多くのヒバクシャを生み出したことでも有名です。このネバダに核実験場ができたのは、南太平洋での核実験は遠方で費用がかさむことが要因であったと説明されました。三方が岩山に囲まれた広大な砂漠地帯は、当時の米国の要求に合致したのでしょう。しかし、この広大な砂漠もまたネイティブアメリカンの土地であったことを忘れてはなりません。
 広大なフレンチマンフラットを見下ろす高台で、私たちは朽ち果てそうなベンチの説明を受けました。米軍兵士がそこに座って核実験を見学したとの説明でした。「バカなことをしていたものだ」との説明でしたが、ラスベガス観光の一つに核実験を見学するツアーもあったとも聞き、そのことの異常さは、東西冷戦と第二次世界大戦を勝利で終えた米国の力を反映したものとはいえ、大きな違和感を覚えました。「バカなこと」の延長上に、ヒロシマ・ナガサキ、そしてビキニと、多くの人の死と苦しみがあったことを、どのように現代社会がとらえ直すのかは重要な課題です。
 フレンチマンフラットに降りると、コンクリートの厚みを変えて作られた半円形のトーチカ、造られた鉄橋、豚を入れた鉄柵、豚の皮膚は人間に近いのだとか、原爆の威力の実験跡が続きます。この実験に使われてゆがんだ鉄橋と、広島にある原爆ドームのむき出しの鉄筋と何がどう違っているのか。豚の皮膚と被爆者の焼けた肌は、米国の中でどうつながっているのか、日本に生まれたものとして複雑な印象でした。

 ネバダの核実験場では、51年の開設から93年のモラトリアム宣言の間に100回の大気圏内核実験、828回の地下核実験が行われました。私たちは、フレンチマンフラットから地下核実験の全てを行ったYucca flat(ヤッカフラット)に場所を移しました。ヤッカフラットには、地下核実験の痕跡となる陥没口があらゆるところにあります。地上での見学でははっきりとわかりませんが、上空からの航空写真で見るとあたかも月面上のようにクレーターがいたるところにあり、その異常さが浮き彫りになります。私たちは、63年に行われた著名な地下核実験、Storax(ストラックス)作戦で作られた巨大な陥没口であるSedam Crater(セダン・クレーター)を見学しました。直径390m、深さ100mのクレーターは、地下635フィートに設置された104ktの核爆弾によって作られました。その大きさにも驚かされましたが、このクレーターが米国政府によって国家遺産に登録されているという事実に驚愕しました。ちょっと離れた場所には、実験用に作ったレンガの家や木造の家もあります。アップルハウスⅡと呼んでいるこの建築物も、国家遺産に登録されていると説明されました。東西冷戦の最中、西側諸国の雄としての米国が、その威信をかけて行ったのが旧ソビエトとの核開発競争と宇宙開発競争だったことを忘れてはなりません。ネバダの核実験場は、アメリカの核開発の拠点であり、国威の原点なのだということ。そのことに対して、被爆国日本は何をどのように訴えるのか、唯一の核使用国としてその道義的責任を果たすとした米国が、核開発競争の当時をどのように総括するのか、そのことが強く思いに残りました。
 

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クレーターだらけのヤッカフラット(出所:The Geology News Blog)

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大きな口を開けるセダン・クレーター(出所:The Geology News Blog)

鳩山首相が沖縄県知事、名護市長と会談し辺野古沖にくい打ち桟橋(QIP)方式を軸とした代替施設案を提示

2010年05月04日

 鳩山由紀夫首相が沖縄県を訪問し仲井真弘多知事、稲嶺進名護市長らと会談し、普天間基地を沖縄キャンプ・シュワブ沿岸部(名護市辺野古)埋め立てを一部修正して、辺野古沖にくい打ち桟橋(QIP)方式を軸とした代替施設案を提示。同時に徳之島へのヘリコプター部隊移設か、一部訓練の移転も目指す意向を表明。沖縄県知事、名護市長共に反対を表明。

北朝鮮の金正日総書記が4年ぶりに訪中。

2010年05月03日

核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開幕。(米・ニューヨーク)。

2010年05月03日

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