2011年11月

米・国防総省がインドとの軍事協力に関する報告書発表。

2011年11月02日

過去5年間インドとの軍事交流が急速に発展している、2011年度に米軍はどの国よりも多い56回の訓練や演習を行ってきた、と述べている。

(~2日)福島第一原発2、3号炉でキセノンが検出される。核分裂反応の結果が疑われる。

2011年11月01日

イスラエルがパレスチナのユネスコ正式加盟に対する報復措置として、占領地東エルサレムとヨルダン川西岸の大規模ユダヤ人入植地で住宅2000戸の建設を加速させることを決定。

2011年11月01日

「緊急防護措置区域」拡大で合意―原子力安全委員会の作業部会

2011年11月01日

 原子力安全委員会の作業部会が、原発事故に備えて防災対策を重点的に実施する地域「緊急防護措置区域」(UPZ)を、現在の指針の8~10キロ圏から半径30キロ圏に拡大することで合意。さらに甲状腺ヒバクを避けるため、住民の屋内退避や安定ヨウ素剤の服用を考慮する「放射性ヨウ素防護地域」(PPA)を新設、福島第一原発事故を参考に原発から半径50㌔を目安とした。

政府が今冬以降の電力需給対策として、関西電力管内に10%、九州電力管内に5%の節電を要請。

2011年11月01日

作業手順書の作成ミスによるトラブルで停止していた、九州電力・玄海原発4号機が、佐賀県知事と玄海町長の容認を受けて運転再開。

2011年11月01日

【ニュースペーパー2011年11月号】原水禁関連記事

2011年11月01日

●「さようなら原発」の講演会で呼びかけ人が訴え

●ドイツの脱原発とエネルギー政策転換の背景 市民と地方自治体がその原動力に
 フリージャーナリスト(ベルリン在住) 福本 榮雄

●さようなら原発1000万人署名の成功に向けて 命輝く国を求め、民主主義を動かそう!
 平和フォーラム・原水禁 事務局長 藤本 泰成

●中断していた「新原子力政策大綱策定会議」が再開 1000万人署名の成功で国民的議論を起こそう
 原子力資料情報室 共同代表 伴 英幸

●JCO臨界事故から12年 脱原発の姿勢を強める東海村村長
 反原子力茨城共同行動 根本 がん

●レイキャビク会談25周年を迎えて(2) 宇宙に広がる軍拡競争


「さようなら原発」の講演会で呼びかけ人が訴え
いまを生きる私たちが原発をなくそう!

 9月8日に、東京都新宿区の日本青年館・大ホールで、「講演会・さようなら原発」が開かれ、約1300人が参加しました。「さようなら原発・1000万人署名」や9月19日の大集会の呼びかけ人から、鎌田慧さん(ルポライター)、大江健三郎さん(作家)、落合恵子さん(作家・クレヨンハウス主宰)、内橋克人さん(経済評論家)の4人がそれぞれの思いを語りました。また、賛同人からは山田洋次さん(映画監督)も参加、さらに崔善愛(チェ・ソンエ)さんのピアノ演奏も行われました。呼びかけ人の訴えを要約しながら、講演会の内容を紹介します。(文責は編集部)。

「後悔を繰り返さないために原発を止めよう」

鎌田 慧

 鎌田さんは原発問題のルポルタージュとして『六ヶ所村の記録』(1991年)をはじめ、『原発列島を行く』(2001年)、最近も『原発暴走列島』を刊行されました。そうした取材を通して「日本が戦争に負けた時に『私は戦争に反対だった』という人はたくさんいました。しかし戦争は急に現れたわけではないし、その間に歯止めをかけることができなかったことをどう反省したのか。再び原発事故が起こる前に、なんとか原発を止めなければならないとの思いで署名や集会が行われることになった」と、運動を呼びかけた経緯を語りました。
 さらに、狭い日本に54基もの原発が並ぶことになった原因について、「原発を引き受けると、原発三法交付金が入ってきます。135万キロワットの原発では10年間で480億円、稼働して10年経ったら400億円の交付金と固定資産税が入ってきます。自治体は安全かどうかを自分では判断しないで、入ってくるお金で地域を開発するのです」と、その利権構造を解説。また、労働者についても「原発で働いている人たちは、ほとんどが正社員ではありません。日雇いであったり、出稼ぎであったり、労働構造の最低辺にいる人たちです」と指摘しました。
 最後に鎌田さんは「『原発が無くなると経済が沈滞する、日本が空洞化する、だから原発は必要だ』と言う原発推進派の人たちに問いかけたい。命とお金と、どちらが大切なのか。原発が無くても生活はやっていけます。新しい自然エネルギーや、持続可能なエネルギーを開発する社会にしていく。そうすると平和で安心した社会に向かって行くことができます。それが、今回の事故が教えてくれた、最も貴重な経験であると思います」と結びました。

「原子炉の全廃を国家に突きつけよう」

大江 健三郎

 ノーベル賞作家の大江さんは、福島に放射能が降り注いだことを「それは、もう起こってしまったのだ、取り返しがつかない、という思いでした。そして私は、広島・長崎に続いて、3発目の原爆が落とされた。しかも私らの手によってという、苦しい、苦しい思いに取りつかれました」と語りました。
 さらに「福島原発の大事故は、福島とその周辺に大量の放射性物質を降らせました。非常に多くの土地が汚染されたことがはっきりしています。特に子どもたちが、放射性物質を体の中に吸い込んで将来苦しむことになるだろうと、専門家たちが言っています」と、その甚大な被害を指摘しました。
 その上で、1945年の敗戦を経験した中から「こういうことを我々がやってしまったということは、あの被害体験、加害体験に根ざして、新しい国としての自分たちの生き方を決めた、その決意を無駄にしたということではないでしょうか。敗戦直後に始まり、私などにも生きていく方向を示してくれた、苦しいけれども、貧しいけれども、新しい時代であったのは、66年間で終わってしまったのではないでしょうか。広島・長崎で始まったものが、福島の原発事故で終わったのではないでしょうか」と問いかけました。
 また大江さんは、放射線の体内被曝の恐ろしさを指摘した上で、「放射線の出る元であるこの国の54基の原子炉の全廃を、国家に突きつけようではありませんか。それがいま現在の私たちに、新しい国の進み行きを求めている現実に応えることであります。私も戦後民主主義の、何とか生き残っている老人として、『さようなら原発』のラリーに加わるつもりです」と、決意を語りました。

「1人1人の私たちが、声を上げていきましょう」

落合 恵子

 「私は1945年に生まれました。広島も長崎も心に刻みつけて、生きてきたつもりです」と、落合さんは語り始めました。「広島と長崎を二度と繰り返さないと誓うのであるならば、核兵器と同じ根っこを持った原発を許容することは、私は到底できません。原発を選ぶことと戦争を選ぶこととは、私の中では同じことになります」「『核の平和利用』という、この上なくいかがわしい名前の下に、私たちは核兵器になりうるものを大量に持ってしまっているのです。すでに私たちは、核兵器の潜在的保有国に生きているのだと無念ながら考えます」と訴えが続きました。
 7月の七夕の日に、「(落合さんが主宰する)『クレヨンハウス』で短冊に願い事を書く行事のとき、鉛筆でひらがなだけの幼い文字で『ほうしゃのうこないで』。子どもがそんなことを書かなければならない時代と社会を、私たちはどこかで作ってきてしまったのです」と述懐しました。
 また、「『お母さん、私は子どもを産んではいけないの?』という中学生の女の子に、私たちは何と答えればいいのでしょうか」とも問いかけました。そして、「私は長い間、権力と対峙してきたつもりです。でもいまの私は、権力が欲しいのです。福島の子どもたちを、全員、疎開させるだけの権力が欲しいのです。でも無いのです。だから1人1人、私たちは声を上げ続けましょう。『がんばってください』と誰かに託すのではなく、1人1人の私たちが、声を上げていきましょう」と呼びかけました。

「災害は終わったのではない。これから始まるのです」

内橋 克人

 内橋さんは敗戦の年に神戸大空襲を経験する中から、今回の原発事故を契機に明らかになった原発政策の三つの矛盾を指摘しました。
 第一には「経済界が原子力発電を推進しろと言っていることです。彼らは同じ口で『少子化問題』を言います。今回の原発事故によって、お母さん方、女性の方々は、もう子どもは産みたくないと考えています。少子化が進むのは当然です。少子化が進むのを覚悟の上で、彼らは原発推進を言っているのでしょうか」と問います。

 二点目として「電力が足りないといいますが、電力は余っているのです。運転中の原発を全て停止しても、需要と供給はマッチするのです。こうした構造や言葉のウソを鋭く見抜く市民が増えなければなりません」とした上で、震災の復旧についても、「ボランティアや個別組織の救援で、巨大な災害の現場が救われるとは思えません。政府が、国家が、国民を守る決意を示すべきです」と述べました。
 第三の矛盾としては「災害は終わったのではありません。これから始まるのです」として、放射線による内部被曝をあげ、「原発災害の最も大きな特徴は、スロー・デスを招くことです。サドン・デスは突然の死です。津波や地震にあって、そのまま命を失う。それに対してスロー・デスは、ゆっくりとやって来る死です。20年、30年かけて、死はゆっくりとやってきます。子どもたち、あるいは体質的な弱点を持っている方に、先にやってきます」と述べました。
 最後に「原子力発電に反対することは、決して政治的ではありません。どうか本当の現実の成り立ち、誰が何を企てているのか、きちんと見てください」と強く訴えました。


ドイツの脱原発とエネルギー政策転換の背景
市民と地方自治体がその原動力に

フリージャーナリスト(ベルリン在住) 福本 榮雄

 ドイツはフクシマ後に脱原発を決定したということで、注目を集めています。ただ、ドイツがどうして脱原発にまで漕ぎ着くことができたのか。その背景については十分には語られてはいません。今日は、自分なりにその背景について探ってみたいと思います。

ドイツの運動の流れと背景
 ドイツでは、原発の反対運動をしてきた人たちは、社会の一部から差別や迫害を受けながらも、約40年間続けてきました。反原発運動は当初、原発の立地場所で起こり、そこから全国レベルに広がっています。反対運動をしていた活動家は、反核、環境保護、平和・反戦、有機農業、その他オルタナティブな社会運動をしていた人など多種多様でした。こうした活動家たちが反原発でまとまり、運動が全国に広がっていくのに貢献しています。
 80年代に入ると、緑の党がはじめて国会で議席を獲得します。原発の新設、再処理施設や増殖炉の建設に対して激しい反対運動が起こります。90年代に入っても反原発運動は反対一辺倒の主張を繰り返しますが、2000年代になって運動に変化が起こります。デモなどにおいて一般市民の参加が急激に増加していくほか、 再生可能エネルギー関連の団体、企業などもデモに参加して、再生可能エネルギーの拡大を主張するようになりました。
 一般市民の参加が増加したのは、運動体が警官隊と衝突するケースがほとんど見られなくなって非暴力化していったことが大きいのではないかと思います。さらに、再生可能エネルギーが普及して、代替エネルギーの可能性が見えてきたこともその大きな要因だと思います。現在、反原発デモは市民パレードのような感じで、小さな子どもから学校の生徒たち、乳母車を押す女性、老夫婦などこれまでデモに参加したことのないような一般市民がたくさん参加しています。
 ドイツの反原発運動が続いてきた背景として、二つの点に注目したいと思います。一つは、1968年の学生運動後も運動家が社会に埋もれることなく、独自の主張を持ち続けて社会の中で活動を続けていたこと。もう一つは、 異なる意見を持った人々がいろいろといることを容認するだけの寛容性が社会にあることです。運動家が活動を続けながらも生活していけるだけの余裕を持てる社会であったことも忘れてはならないと思います。
 また、ドイツが核燃料サイクルの確立を断念したこと、チェルノブイリ事故の影響を受けたことも、脱原発へのプロセスにおいて重要な出来事でした。特に、チェルノブイリ事故はドイツ市民に放射能汚染に対する大きな不安をもたらしました。一部地域では原子力で発電された電力の不買運動が起こり、食品汚染を独自に測定するため、全国約40ヵ所に市民による測定所が開設されました。

再生可能エネルギーの拡大の条件
 脱原発決定の要因として、再生可能エネルギーが大幅に成長してきたことも忘れてはなりません。再生可能エネルギーは特に全量固定価格買取制度の導入とともに急速に拡大してきました。この制度は、91年に主に風力発電を対象に開始され、2000年からは再生可能エネルギー法によってすべての再生可能エネルギーに適用されました。
 再生可能エネルギー法は電力の買い取りを義務化し、電力会社は発電された電力を優先的に買い取らなければならなくなりました。さらに、一旦決まった買い取り価格は20年間保障され、それによって再生可能エネルギーへの投資を安定させる効果をもたらしています。
 また、再生可能エネルギーの発電設備が小規模で分散化することから、大手電力会社が参入しにくい分野となり、中小企業や農民、市民が再生可能エネルギーの分野で重要なステークホルダーとなっていきます。こうして、農民は農業以外で副収入を得る手段を獲得し、市民は太陽光プロジェクトなどによって共同で経済活動に参加していきます。再生可能エネルギーで発電する農民や市民たちは一様に、こうした動きを「民主化運動」だといいます。
 自治体は、公共施設の建屋の屋根を太陽光パネルの設置のために貸して収入を得ます。また、再生可能エネルギーの成長によって、地元において手工業が活性化し、それによって自治体に税収増をもたらします。これまでドイツでは、関連業界に約37万人の雇用が創出されました。
 ドイツで再生可能エネルギーが拡大した基盤として、陸続きの欧州大陸で隣国と電力をやり取りしやすい、政治と経済が地方分権化されている、巨大都市、巨大産業がほとんどないことを挙げたいと思います。さらに、市民の中に自然を愛する気持ちが育まれていることも忘れてはなりません。冬が長くて日照時間の少ない土地に暮らすドイツ市民にとって、自然、特に太陽の光はたへいんありがたい賜り物なのです。

たくさんある今後の課題
 再生可能エネルギーの拡大、脱原発という動きの中で問題がないわけではありません。今後、解決しなければならない課題もたくさんあります。

(1)エネルギー貯蔵技術が必要に
 その一つが、再生可能エネルギーでは発電量に大きな変動があるという問題です。この問題を解決しないかぎり、電力の安定供給は不可能です。この変動を調整するため、エネルギーの貯蔵技術が必要になってきています。その可能性として、①揚水発電、②水素の貯蔵(燃料電池、水素自動車などに利用)、③圧縮空気の貯蔵(ガスタービン発電に利用)、④送電網の欧州大陸全体への拡大(短い時間の電力貯蔵)などが考えられています。ただ、それぞれに一長一短があるほか、揚水発電では環境破壊の問題から住民の反対も起こっています。

(2)風力発電に公害の問題
 また、風力発電の成長で低周波公害や景観問題が発生して、周辺住民に反対運動も起こっています。風力発電は今後の重点が洋上発電に移っていくと見られます。ドイツではこうした公害発生を防ぐため、かなりの沖合で巨大施設を設置する計画ですが、それによって敷設される海底ケーブルがどういう影響をもたらすかも未知の問題です。

(3)送電網の構造改革が必要に
 もう一つ重要な問題は、再生可能エネルギーの拡大で送電網の構造(スマートグリッドなどの導入も含めて)を改革しなければならなくなってきていることです。大型施設で集中的に発電される原発中心の送電網から、小型施設で分散される再生可能エネルギーによる発電に適した送電網が必要になってきています。また大型洋上風力発電の拡大に向けて、南北に大きな送電網も必要になってきており、その改革に莫大な投資が必要になってきています。それに対して、新しい送電線の建設に地元では反対運動も起こってきています。

(4)大型化・集中化か、小型化・分散化かで利権争い
 再生可能エネルギー市場に出遅れた大手電力会社が、洋上風力発電において大型施設を建設することで、その遅れの巻き返しを図ろうとしています。再生可能エネルギーにおいても、発電拠点を大型化・集中化しようというわけです。こうした大手電力会社による大型化・集中化か、中小企業、農民、市民による小型化・分散化かで利権争いが起ころうとしています。

(5)実質的な地産地消は可能か
 再生可能エネルギー法は電力の全量買い取りが基本です。ただ、再生可能エネルギーの拡大とともに小さな地域ベースで、地元で発電された電力を地元で利用する実質的な地産地消を実施する地域が出てきており、それがさらにより大きな地域に拡大されようとしています。そこには、再生可能エネルギー法の規則との間に矛盾があるほか、大規模工場、大都市への電力供給をどう解決していくべきなのかなど、まだ解決しなければならない課題も残っています。

市民による新しい産業革命へ
 ドイツのこれまでの脱原発、再生可能エネルギーによるエネルギー転換への動きを見ると、政府が政策の枠組みを立案しているものの、実際の改革への原動力になっているのは市民と地方自治体です。ある意味でボトムアップの動きともいえると思います。
 特に、市民が行政頼りになるのではなく、自らがステークホルダーとなって経済・産業構造の改革に参加しようとしていることが注目されます。こうした動きは、市民による新しい産業革命へと成長していく可能性を秘めています。


さようなら原発1000万人署名の成功に向けて
命輝く国を求め、民主主義を動かそう!

平和フォーラム・原水禁 事務局長 藤本 泰成

多くの感動を胸に9.19集会を終える
 「民主主義が動き出す」。9月20日の朝刊での扱いが小さかった朝日新聞は、9月21日の社説で、9月19日の「さようなら原発5万人集会」をそう表現しました。既存の労働組合や運動組織の枠を超えて、本当に普通の市民が集まりました。その数、6万人。集会が初めてならデモ行進も初めて、参加者の半数以上はそのような人でした。集会会場は立錐の余地もない状態、最寄りのJR千駄ヶ谷駅まで人波は続きました。駅構内の混雑で、電車から乗客が降りることのできない状態が生まれました。集会会場へたどり着けなかった人がたくさんいたに違いありません。実行委員会の一人として、紙面を借りて深謝します。
 集会の呼びかけ人である、内橋克人さん、大江健三郎さん、落合恵子さん、鎌田慧さんが、そしてけがを押して澤地久枝さんが壇上に立って全国へメッセージを送っていただきました。俳優の山本太郎さんが、壇上の脇から飛び込んで話されました。一つひとつの言葉に大きなどよめきが起こりました。福島からは1,000人を超す人が、バスに分乗して駆けつけてくれました。
 壇上に立った武藤類子さん(ハイロアクション福島原発40周年実行委員会)は、福島の今の現実を、そしてその中で日々暮らす県民の思いを、明確に、しかし美しいフレーズで表現されました。多くの感動がありました。当日、話が聞こえないとのお叱りがありました。当日の出演者のみなさんのお話は、「さようなら原発1000万人アクション」ホームページにアップしていますのでご覧ください。

なぜ政治の闇を創り出してしまったのか
 1955年の電源三法の成立から今まで、原発政策はどのようにあったのか。3.11原発震災以降、少しずつその闇が照らされつつあります。総括原価方式の問題、政治献金、パーティー費用、宣伝費その他の経費、そして電源開発促進勘定の半額以上が独立行政法人・公益法人などに支払われ、そこに経産省などの関係官僚が天下っている現実、加えて官民双方による原発推進の世論形成への「やらせ」の問題、政・財・官そして研究組織を含めた癒着の構造が明らかになりつつあります。安全神話がどう創られてきたか、なぜこのような深く暗い政治の闇を創り出してしまったのか、そのことを明らかにして初めて「民主主義」を私たちの手で動かしていくことができるのだと思います。
 脱原発を求めることは、社会のあり方を変えることだと思います。戦後の日本社会の国民をないがしろにしてきた政治のあり方を変えることだと思います。「合意なき国策の中で、多くの命がないがしろにされてきた」――内橋克人さんがそう話されています。集会では「さようなら原発、こんにちは命輝く国」と声を上げました。私たち原水禁は、この未曾有の震災の中で、一人ひとりの命に寄り添う社会を、政治を作り上げなくてはならないと考えています。

今やらなくていつやるのか、後悔はしたくない
 「私たちは、抵抗する意志を持っている。原発に命が脅かされる危機にあることを、想像力も知識もない政治家たちに、経団連の実力者たちにはっきり知らしめねばなりません。そのために私たちに何ができるか。この民主主義の集会、市民のデモしかないのであります」――大江健三郎さんは、私たちをそう鼓舞されました。
 私たちは、1000万人をめざして「さようなら原発署名」運動を展開しています。本当に、本当に、真剣にこの署名をやり遂げねばなりません。来年の3月24日に署名集約の集会を予定しています。それまで、3月11日の「さようなら原発福島集会」(仮称)など、数多くの取り組みを市民のみなさんとともに創りだして行きます。
 原水禁には、毎日多くの市民から、自ら集められた署名が届きます。今や脱原発は市民の圧倒的な意志になってきています。「さようなら原発1000万人アクション」に結集するNGOや市民団体は、「今やらなくていつやるのか、後悔はしたくない、将来の子どもたちに対して」――そのような強い思いでつながっています。
 私たちは、今こそ組織の外に出て、脱原発の声をあげましょう。脱原発で結び合いましょう。


中断していた「新原子力政策大綱策定会議」が再開
1000万人署名の成功で国民的議論を起こそう

原子力資料情報室 共同代表 伴 英幸

福島原発事故の中間報告もまだなのに
 原子力政策大綱の改定を議論する「新大綱策定会議」が9月27日から再開しました。会議は3月11日の福島第1原発事故によって中断していたものです。原子力基本法で規定されている原子力開発利用の施策を審議・決定する任務があるから再開するのだと言いますが、原子力委員会の再開決定を見ても、さっぱりわかりません。しかも、事故原因の中間報告すらまとまっていない状況でなぜ再開なのでしょうか。
 再開しても原発推進委員の感覚は事故前と全く変わっていません。「原発がないと電力不足になる」といったような議論が続いています。ただ、メンバーが一部入れ替わっていて、例えば、安全問題は専門家に任せていけばいいと主張していた大橋弘忠委員が外れて、新たに脱原発を主張する経済学者の金子勝さんが加わり、大いに勇気づけられています。
 他方、昨年6月に決定された「エネルギー基本計画」は確実に破たんしています。これは主として、原発によって温暖化削減目標を達成するというもので、原発の14基の増設と設備利用率90%の達成を骨格としています。福島の事故はこれを吹き飛ばしたのです。福島県は復興ビジョン検討会の中で県内10基の原発の廃炉を復興の出発点としました。菅直人前首相は脱原発依存を訴え、野田佳彦首相もこれを引き継いでいます。
 そこで、現行基本計画の見直しが必然となったわけです。もともと、3年ごとの見直しとなっていますが、そこまで待てないということです。この見直しのために、枝野幸男経産相の諮問機関である総合資源エネルギー調査会の下に、基本問題委員会を新たに設置して見直しを進めることとなりました。基本計画の審議は、以前は基本計画小委員会で行なわれたのですが、今回はメンバーを大きく入れ替えることもあって、別の委員会としたのでしょう。

基本問題委員会の3分の1は脱原発派
 この委員会のメンバーに私が選ばれたのは鉢呂吉雄前経産相の「置き土産」と言えるかもしれません。鉢呂前大臣は審議会のメンバーに「改革」を持ち込みました。半数を原子力政策に批判的なメンバーで構成して審議することを求めたのです。一連の騒動で辞任に追い込まれた結果、半数とはいきませんでしたが、3分の1程度は批判的なメンバーが入っています。
 審議は10月3日から始まりました。とは言え、ここも呉越同舟で、委員長が産業界の代表ともいえる、三村明夫・新日本製鉄会長ということで、気が抜けません。輸出産業として原子力は有力とか電力不足問題、再生可能エネルギーの限界、安全保障上、原子力は必要であるといった推進意見が相変わらず展開されていました。しかし私たちも、「脱原発しかない」(阿南久・全国消費者団体連絡会事務局長)、「耐震安全性が確認されない原発の再稼働はない」(筆者)などとの主張を繰り広げました。原発を前提とした既存の議論ではなく、ゼロからの議論を求める意見もありました。

「原発ゼロ」は不可欠な選択肢
 さらにもう一つ政策を議論する会議があります。これが官邸に設置された「エネルギー・環境会議」(エネ・環会議)です。これは革新的エネルギー・環境戦略会議の下に置かれたもので、ここで昨年のエネルギー基本計画に代わるものが作成されます。3つの組織が異なる計画を出すことは出来ないので、相互に連絡を取りながら議論を進めると、新大綱策定会議の席上で説明がありました。中心となるのは官邸のようで、ここで来年の春頃から国民的議論を展開して最終的なものに仕上げていくとする考えです。
 国民的議論がどのように行なわれるか、まだ見えませんが、これまでのように経産省や原子力委員会から上がってきたものを決定するだけでは済まされないという姿勢でいます。春の提案に向けて、基本問題委員会や新大綱策定会議が議論を進めて、中間案のようなものをエネ・環会議にあげた上で、議論のたたき台をまとめることになります。
 新大綱策定会議の再開にあたって、いくつかの選択肢を提示することになるだろうとのことです。その選択肢の中に原発ゼロのケースを加えることが不可欠となります。ゼロまでの期間をどうするかの議論は残りますが、選択肢に入れた上で国民的議論に持ち込むことを主張していきたいと思います。そのような中で、現在取り組まれている「さようなら原発1000万人署名」は、国民的議論の行方を大きく左右するものです。


JCO臨界事故から12年
脱原発の姿勢を強める東海村村長

反原子力茨城共同行動 根本 がん

集会へ届いたメッセージ
 10月2日、水戸市南町・自由広場で、「放射能を許すな!原発はいらない!JCO臨界事故12周年集会」が開かれ、県内各地はじめ関東各地から500人が参加し、集会、デモが行われました。
 集会の最中に、村上達也・東海村村長の「人の命を超える国策などあってはならない」と題したメッセージが紹介されると「オーッ」と声が上がりました。メッセージの内容は「JCO臨界事故で二人の死者、多くの一般市民の被曝者を出したのに、日本人はまたもやアジア太平洋地域に同じ過ちを犯しました」「福島原発周辺の人たち、避難者は将来の当てもなく漂流しています」「原発政策は、国策と言われ日本人は『国益』『国威』という言葉に弱いようですが、今度こそ命、それは人間だけでなく、生きとし生けるものの命を第一に考えられるよう、頭を切り替えるときです」などとする内容です。
 このメッセージは、集会実行委員会が、村上村長に直接手紙を書いて要請し、それへの返信として届いたものでした。

「村が政府へ問うていかなければ」
 このところ、村上村長の言動がよく取り上げられる背景には次のような状況があります。
 東海第2原発は現在定期検査中で、その再稼働を11月中旬に行う予定でしたが、東日本大震災のあおりを受けて、タービンの損傷の修理、変圧器の交換やストレステストなどで、来年8月になる予定といいます。また、このところ東海第2原発定検中にもかかわらずトラブルが起き、地元の不信感を募らせています。
 そこで、福島原発事故や地元の原子力施設などのトラブル状況を説明する「住民説明会」が開かれました。席上で村上村長は「東海第2原発で同じようなことが起きたらどうなるか考えるとぞっとする」「原発は危険が大き過ぎる」と村民に考えるよう訴えたのです。その後、「福島事故の詳細が伝えられるにつれ、村民の不安が拡がり、これは容易ならざる問題と思い、恐怖を覚えた。そして、今後の東海村を考えた」と言います。
 そして、9月定例議会のとき議員からの質問に対しての答弁で「福島原発事故・震災から3ヵ月~5ヵ月過ぎて、政府の対応のまずさを見たとき、日本は原発・原子力を扱う資格があるのかと自問し、村が政府に対して問うていかなければならない」と答えました。
 9月になって、茨城県取手市議会では、東海第2原発の再稼働問題で、同原発の再稼働を止め、廃炉とするよう求めた意見書が採択されました。9月になると、様々な集会や催しが開催されました。その一つとして「JCO事故の翌日の東海村」と題する樋口健二写真展が、JR東海駅ギャラリーで開かれ、10月1日には樋口健二さんの講演も開催されています。

投げかけた波紋は今後も広がる
 9月30日、JCO臨界事故から12年目の朝に村上村長は、村役場で職員を集め臨時の朝礼会を開きました。この席で村長は、「あれから12年が過ぎ、あのような経験はしないだろうと思っていた。それが東日本大震災で最悪の福島原発事故を被った。福島事故の政府の対応について、JCO事故以後、全く変わっていない。安全をどう保証するのか、問い質したい」と語り、次いで「人に冷たく無能な国では原発を持つべきではない」と政府を批判。「カネのために魂を売ってはならない」と結びました。一方で、「私は、原子力の全てをダメだというのではない、今後も科学技術研究に力点をおいていく」とも強調しました。
 東海村では、福島第1原発事故を目の当たりにしてもなお、原子力をいかに進めるかとする考えが根強くあり、村民の中には「東海村は原子力のおかげで栄えてきた。村長の意見は原子力関係者を愚弄するものだ」と批判する人が多いのも事実です。これらの意見に対して、村上村長は言います。「私の発言は、村民一人ひとりが考えるべきで、その素地はできている」。また、「原発に頼らない村のあり方を考えるべきです」「古いものにしがみつくのはよくないと思う」とも語っています。村上村長が投げかけた「脱原発」の波紋は今後も広がっていくでしょう。
●村上村長のメッセージ全文


レイキャビク会談25周年を迎えて(2)
宇宙に広がる軍拡競争

引き継がれてきた宇宙軍事化の道
 米国、ソ連の両首脳が核兵器ゼロを目指したレイキャビク会談から25年が経過した今日、世界の核状況はすっかり変わりました。レーガン元米大統領が固執した戦略宇宙防衛構想(SDI)は、いま姿を変えてブッシュ前大統領から、オバマ大統領へと引き継がれています。
 一つは、ブッシュ前大統領によって具体化したミサイル防衛(MD)システムで、これはオバマ大統領によってさらにヨーロッパMDとして展開されようとしています。もう一つは昨年12月13日にオバマ政権が、2010年会計年度から5年間で10億ドルを大幅に上回る額を計上して開発すると発表した、通常型即時全地球打撃(CPGS)の開発です。
 CPGSは、地球上のあらゆる場所を1時間以内での攻撃を可能とすると発表されているだけで、どのくらいの時間枠で配備するのか、どれほどの費用を必要とするのかも明らかでありません。
 しかし、これまで米国の陸・海・空の3軍はそれぞれ独自に新型核ミサイルの研究を行ってきており、そのなかで空軍が2008年に始めた非核攻撃ミサイル(CSM)が、最もCPGSとして実用化が高いと判断されたようです。
 現在の大陸間弾道弾(ICBM)が、宇宙高く核ミサイルを打ち上げ、ロケットブースター部分を切り離して、弾頭だけが目標に到達する仕組みであるのに対して、CSMは低く飛行(滑空)しながら遠くの目標に短時間で到達すると伝えられています。
 CSMを基にCPGSとして完成していくには、命中精度や地中貫通能力など、まだ多くの技術開発が必要でしょう。レーガン後にSDI計画が大幅縮小され、先行投資をしていた航空・宇宙産業の多くが縮小・再編状況に置かれますが、米軍産複合体はSDIによって示された宇宙軍事化の道を着実に歩んでいたのです。

日本の軍事産業が米SDIに参入
 レーガン米大統領の打ち出したSDI構想は、高度な技術が求められものでした。しかし当時、軍事部門だけに研究・開発費を注いできた米国は、ヨーロッパ、日本に対してソフト・技術両面でかなり遅れており、このため資金面も含めてヨーロッパや日本の参加を求めてきました。よく知られているように日本では武器輸出三原則が三木武夫内閣によって確認されてきましたが、1982年に登場した中曽根康弘内閣は、83年に米国に対してだけ三原則をゆるめ、武器技術に限って供与する道を開きます。
 これを受けて米国防総省の防衛技術審議会のM・カリー元国防次官(航空機製造「ヒューズ・エアロクラフト社」会長)を団長とする米軍事産業の中核会社の幹部が83年10月末から11月にかけて来日し、日本の先端技術の提供と協力を強く求めてきました。中曽根内閣は86年9月9日に、SDIへの参加を閣議決定しますが、日本企業の多くは共同開発技術に制約がかかるとして、参加をためらう状況でした。
 ついに米政府は87年11月に、日本に対して「大気圏内の中距離以下のミサイルや超高速機を非核兵器体系で迎撃する日本版SDI構想」を提案してきます。日本経済新聞(87年12月21日付)は、米提案について「日本側企業は、米企業の下請けとなる形態をとらず、三菱重工業、三菱電機、日本電気、富士通、日立製作所、日本無線からなる企業連合が直接、米SDI機構と契約し、経費は全額米政府が負担する」「米政府は日本政府の関与を求めている」と伝えています。

殺りくと破壊に手を貸すな
 こうした提案を受け、88年11月に三菱重工、三菱電機、富士通、日立製作所、三菱商事と米ボーイング、ロッキード、マグネダルダグラス社などが加わった企業グループと、米LTV社を中心に川崎重工が参加する企業グループが、米SDI機構に応札します。結局両グループとも、その後4年半にわたってSDI構想の研究に関わります。日本企業の米宇宙防衛産業へ参加する道がこのとき作られたのです。
 日米安保協議委員会は、98年9月20日に戦域ミサイル防衛(TMD・現在のミサイル防衛)の日米共同開発で合意します。日本側が分担するのはイージス艦搭載の新型ブロックⅡ(SM・3)のうち、ノーズコーン(空気の摩擦熱から赤外線センサーなどを守る弾頭保護部分)、21インチと現在より大型化される新型SM・3の第2段階のロケットモーターで、キネテック弾頭、赤外線シーカーは日米共同開発となりました。
 民主党の前原誠司政調会長が、武器禁輸三原則の解除、米国以外との兵器共同開発を求めているのは、こうした日本企業と米国企業との共同開発を背景としています。私たちは競争力の低下などいう甘言にまどわされ、殺りくと破壊の産業に手を貸してはならないのです。

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